(初出2013.11.28 一部加筆修正・画像追加 )
鎌倉幕府がいつ成立したか、というのはまだ統一見解に達していないが、しかし1180年の挙兵から1189年の奥州平定の約10年間で全国を統一したのは戦国時代の天下統一までの期間とくらべれば(日本全国の範囲が違うとはいえ)あまりにもスピーディーな仕事だと思える。
そしてさらに驚くべきは長く見てもたかだか3年程度で滅ぼされてしまったということである。
なぜ鎌倉幕府は短期間で全国政権を樹立し、そして短期間で滅びたのか?
その答えは鎌倉幕府の構造にある。
さて、鎌倉幕府の頂点に立つのは右大将家・源頼朝公であるが、その側近たちの多くは北条氏、三浦氏、梶原氏、和田氏に代表される関東に居着いた平氏である。
なぜ彼らは平氏でありながら平清盛や宗盛に味方せず、源氏である頼朝に組みしたのか?
それは端的に言えば、「都の平氏本流より頼朝の方が関東の平氏と利害が一致したから」である。
平氏本流が西へ西へと落ち延びて行ったことからもわかる通り、彼らの権力基盤は西国にあった。
それゆえ、西国の統治には関心があったが、東国のことには相対的に見て無関心になりがちであった。
当時の武士にとって(というより戦国時代に至るまで)一番大事なことは先祖から引き継いだ土地の支配権を守ることであり(「一所懸命」という言葉も先祖伝来の所領を懸命に守ろうとすることに由来する)、それを承認してくれるリーダーであれば、誰が上に立とうと関係なかった。
だから関東の武士は血筋云々に関係なく、自分たちの土地について無関心なリーダー(都の平氏本流)に代わって自分たちの土地の支配権を承認してくれるリーダー(頼朝)を担ぎ上げた。
そういう権力構造であるから、頼朝も付き従った武士たちの土地、支配権を承認した。
だから東国の武士にとっては看板は挿げ替えたけれども、実際の土地支配については何も変わっていないのだった。
これが鎌倉幕府が短期間で全国政権になった理由である。
つまり頼朝の軍勢が勝ち進んで行くに従い、在地の武士は平氏に従っていては自らの所領が危ういと思い、雪崩をうって頼朝へ帰順した。
自分たちにとっては上が誰であろうと問題がなく、看板を変えれば済むだけの話なのだから。
そして鎌倉幕府が短期間で滅亡した理由もそこにある。
すなわち後醍醐天皇の倒幕勢が有力御家人足利高氏を取り込んだ段階で幕府の形勢は危ういと思われるに至り、幕府に付いて敗れれば所領を失う恐れがあるために、また雪崩が起きたのであった。
(映画「レッド・クリフ」で孫権配下の有力者が曹操に降伏しようと言うのも同じ原理である。曹操に降伏すれば、孫権は殺されるだろうが、配下の有力者は上が曹操に変わっただけで引き続き統治を任されるという読みがあった)
ところで、アパマンショップという不動産屋を知っているだろうか。
最近1000店舗を超えたそうで上戸彩だのAKBだのEXILEだのを押し出して我が世の春を謳歌しているが、実は直営店が70店舗ほどしかないということは知られていない。
他の900店舗以上は何かというと「アパマンショップ (株)あかい産業」といったアパマンショップの看板を掲げただけのFC(フランチャイズ)店なのである。
そう、鎌倉幕府とアパマンショップの構造が同じだということに気づいただろうか。
鎌倉幕府とアパマンショップの急激な店舗拡大はフランチャイズ制度によるものであると同時に、その体制の脆さもフランチャイズ制度に由来するのである。
鎌倉幕府だけではない。
室町幕府も江戸幕府もアパマンショップであることに勘のいい方は気づいたかもしれない。
そしてそのどちらも崩壊の原因はフランチャイズ制度に内在する欠点に由来している。
室町幕府は本部が力を失ってそれぞれが看板を外したこと、江戸幕府は有力フランチャイジーに圧倒されたこと。
こう考えてみると日本の歴史はアパマンショップであると言っても過言ではない。
次回はアパマンショップの長所と短所を踏まえた上でアパマンショップとは異なる統治の仕組みについて述べたいと思う。